忌部神社の撮影

今月末までに鴨島の公民館に高越山をバックに忌部神社入れた吉野川市の写真を届けなければいけない。 10月に開催される吉野川コレクションの小冊子の表紙に使うそうだ。
ところが、先週の土日は雨。 今週末は台風ときた。 これではあかん! そこで、今日は4時に起きてエリアに5時集合、5時半テイクオフで写真撮影を試みることにする。 2時間フライトしても7時半。 ここから片付けを行っても9時には会社に間に合うだろう。
5時5分前にエリアに入ると寝太さんとモンモンさんが来ているではないか!! 誰もいないと思っていたのに嬉しい誤算だ。 あ!そういえば月給泥棒の鳴一さんが来ていない!? 何でだろう?? 日が短くなってきて5時だとまだ作業が難しいほど暗い。 作業用のスパイラル蛍光灯を点けて準備を行う。 ユニットを組み上げたあと、プラグを10番に換える。 プラグの焼け具合が少々白いからだ。 ちなみに現在の設定は、ニードルを真ん中よりも一つ下げ、メインジェット#108、プラグ10番だ。
いい風が吹いている中、寝太さんはテンポよくテイクオフ! うまい!! モンモンさんもテンポは良かったが、キャノピーの向きとよりも30度ほど右向きに走り始める!? ロールの揺り戻しで地面激突かと思ったが、ポリーニのパワーのおかげで上昇が速く無事テイクオフ。 フラリーマンは湘南方式で腕を立てて軽くテイクオフ。 5分内で3人が飛び立つ。 上昇中、8500rpmで座面温度は180℃と快調だ。 プラグの10番はハマったようだ。

地表近くでは西向きに時速6〜8kmと前に出ない。 高度300mでも変わらない。 これは今日は撮影は無理かも?と思いつついい風を求めて更に上昇する。 高度650mで揺れが始まる。 風が変わる前兆だ。 期待しつつ更に上昇する。 高度700mを超えると速度は25km/hまで上昇する。 これはいい!! この高度以上で飛べば忌部神社まで辿り着けそうだ。 高度800mでは大気も安定して揺れもなく前に出てくれる。 三機並んで空の散歩を楽しみながら善入寺島の上を通過していると背中に温かい日の光を感じる。 夜明け前は霞の中に隠れていた高越山も時間とともに霞が晴れてきてきれいな姿を表してくれる。
ところが、阿波麻植大橋手前まで来ても忌部神社が見当たらない?? 国道のコメリの向こうの道を南に下った山裾のはずだけどなぁ・・・ あかん! 高度が高すぎて解からん! 仕方がないので高度400mまで降下する。 忌部神社のある山の稜線とほぼ同じ高度なので結構恐い。 ただ風は南寄りの西風なのでローターなど山の影響はないようだ。 ここかな?と思ったところよりちょっと西側の少し山側に忌部神社を発見!! これは解からんわ!! 完全に山に溶けこむような保護色だ。 ここまで近づくと写真に高越山が入らない。 一度Uターンして阿波麻植大橋まで戻ることにする。
阿波麻植大橋から撮影に入るが、原稿は縦なので吉野川がうまく入らない。 更に山に接近して忌部神社、高越山、吉野川の三つを入れようと頑張ってみる。 しかし、横写真でなければ物理的に無理なようだ。 仕方なく吉野川は諦める事にする。 
阿波麻植大橋〜忌部神社間を四往復して写真とビデオを撮影完了! ここからはいつもの空撮だ。 モンモンさん、寝太さんの撮影に入る。 朝日を浴びたキャノピーのバックに瀬詰大橋と高越山、吉野川が映える。 十分二人を撮影することが出来たが、高度が低く西風が強いためほとんど前に出ていない。 未だ瀬詰大橋を越えることができないでいる。 寝太さんと瀬詰めを超えたら帰ろうか!と話していると、それを聞き違えたモンモンさんがUターンを始めてエリアに帰ろうとしている。 ま、いいか! ってことで今日のフライトは終了でエリアに向かう。
帰りはとにかく速い。 高度300mと低く、速度も60km超えているので速度感が違う。 あっという間にエリア到着。 まだ時間と燃料に余裕があったので柿原の堰周辺をプラプラと飛び回ったあと、着陸に入る。 地表の風は上空より弱いようで、地表に近づくと思ったよりも伸び始める。 しかも、ランディング直前に吹き下ろされて全くフレアーが効かず3人ともガンダム降りとなってしまう。
さぁ〜〜〜って! さっさと片付けて会社に行くかぁ〜〜!! って、本音は休みたい・・・ (x_x)☆\(ーー; ビシ!!
(今日のフライト)
・05:36〜07:09 飛行時間01:33
・本日フライト時間 01:33
トータル622回 541時間51分


忌部神社はなぜ徳島市にあるのか】徳島県立博物館ニュース58[2005年]より引用 (承認番号13080001)
 徳島市二軒屋町の眉山南東中腹に鎮座する忌部神社は、阿波忌部の祖神天日鷲命主祭神とすることで知られています。阿波の忌部神社の歴史は古代に遡るものの、現在地に神社がつくられたのは明治時代のことです。なぜそうなったかというと、複雑な経緯があります。ここでは、その概略を紹介しましょう。

 阿波忌部とは、古代の宮中祭祀を担当した忌部氏に従属した集団です。忌部氏の神話・伝承をまとめた『古語拾遺』や平安時代の法令書『延喜式』などによれば、天皇の即位儀礼である大嘗祭に際して、麁服という布を献上しました。また、昨年10月に吉野川市が誕生したことによって消滅した「麻植郡」(古代・中世は麻殖郡と表記)という郡名も、阿波忌部が麻を栽培したことに由来するという神話があります(『古語拾遺』)。

 このような古代阿波忌部の紐帯だったのが、麻植郡にあった忌部神社でした。『延喜式神名帳に登載された、いわゆる式内社で、その中でも阿波に三社あった大社のひとつでした。

 そうした位置づけからすれば、阿波国ではとくに重要な神社だったはずですが、時代が降るうちに所在が分からなくなり、複数の神社が古代以来の忌部神社の系譜を主張するようになりました。そのため、近世から近代にかけて、所在地論争が続きます。所在不明となったのは、地震による崩落のためとか、戦国期に土佐から侵攻した長宗我部氏に焼かれたからなどと伝えられています。

 現在の場所に忌部神社が置かれた直接のきっかけは、明治初年の所在地論争です。1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足した際、古代の式内社である忌部神社が、所在不明のまま、神祇官所管の国幣中社に列格されます。そこで、神社の特定が急がれました。

 ここで重要な役割を果たしたのが、小杉榲邨(1834〜1910)でした。彼は、近世末から近代にかけて活躍した国学者として著名ですが、その考証により、1874年(明治7)麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の忌部神社が、式内社の系譜を引くものと判断されました。

 これに対し、美馬郡西端山(つるぎ町貞光)の五所神社を、古代の式内社である忌部神社に比定する見解が出され、激しい争いとなりました。本来は麻植郡にあった忌部神社の系譜を、美馬郡の神社に見いだそうとするのは奇妙なことですが、すでに『阿陽記』など、近世に民間で流布した地誌では、忌部神社がある地域はもとは麻植郡で、後に美馬郡になったとされ、美馬郡内にある阿波忌部の伝承などが挙げられています。西端山側の主張には、そうしたものが底流にあったのです。そして、小杉の考証は却下され、1881年(明治14)、五所神社忌部神社と決定されました。

 このように、所在比定が難航したことから、1885年(明治18)には現在地に社地が求められ、1887年(明治20)に遷座祭を行って国幣中社忌部神社が新設されるに至りました。あわせて、五所神社は新しい忌部神社の摂社に位置づけられました。この決定については、異論はなかったようです。

 ごく簡単に述べてきましたが、忌部神社論争の詳細については、まだ不明な点が多くあります。地域史研究のあり方や地域意識の推移を考える手がかりとして、追究が望まれる課題でもあります。